※2021年6月更新
地元の米屋さんのチラシが入っており、私達の住む鴫野の由来が紹介されていました。
昔はこの地域 は川で囲まれた広い湿地帯で、鳥のシギが 群がっていて、江戸時代に「鴫野」の文字 が
用いられるようになりましたが、古い文 献には「志喜野」(注:「志を喜ぶ」と読め ますね。)
の文字が残っているそうです。
また、「城東区」については、町村制が施 行された明治22年に、鴫野村など4つの村 を合わせて北新開荘村となり、
東成郡城東村(大正5)、東成区鴫野町(大正14)、 旭区鴫野町(昭和7)を経て、城東区に なったのは、
昭和18年だそうです。
歴史をさかのぼると、鴫野の戦いがあったそうです。
鴫野の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の役のうち、
1614年(慶長19年)11月26日に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つです。
そのあとは、明治から大正にかけて、鴫野は工業で発展したそうです。
西に東洋で最大の兵器工場「大阪砲兵工廠」が広がり、鴫野西には鐘紡大阪工場が水田を埋め立てた20万平方mに
近い敷地を占め、南北に開堀された〝鐘紡運河〟が付近の工場の運輸水路としての役割を担った。
さらに森下仁丹など多くの工場も次々と建ち、工業地帯を形成。
鐘紡だけでも従業員が3000人とあって、鴫野西には市場が誕生し、朝日橋筋や鴫野橋筋などには商店街ができ、
映画館やカフェもでき、周辺からも多くの人が集まる繁華街になった。
しかし戦争で軍事施設である砲兵工廠に隣接した鴫野は空襲で壊滅的な打撃を受けた。
戦後、全焼した鐘紡が移転した跡地を市営住宅(木造)用地に転用。
当時の最大規模であった鴫野団地が出現した。
1930年に父親が店を開いて以来の着物屋「衣布座はりよし」の吉永惠一会長は「ここ(鴫野橋筋のひとつ東の通り)の
一角100軒ほどだけが戦災被害を免れた。夜店もあってかなりにぎやかだった」と。
そして「50年代には高層化が進み」、町の景色が変わっていった。
最近もまだ工場移転、その跡に高層マンションの流れが続いている。
昔はもっともっと都会だったみたいですね!
出典:「やまとや かわらばん5月号」
出典:「ウィキペディア」
出典:「週刊 大阪日日新聞」http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/131012_23.shtml